日記
もはやメモ書き。『稀によく』更新されます





・せかいは もっと じぶんの おもいどおりに なる。
じぶんの すの きもち(ほんね)を もっと はっしん すれば。


・もっと じぶんは 「へんたい」 である じかく(じしん)を もとう。


・ほかの ひとが やりたがらない ことを そっせんして やる。


3/31(木)
どうしてこのような道に進んだかということを簡潔に書いておこうと思います。
脳の機構を数理的に研究するというのは、大学時代からやりたかったことの一つです。
臨床を2年やりましたが、このやりたいという気持ちが治まることはありませんでした。
しかし、臨床をやるうちに、脳の疾患、特に精神疾患への興味が出現し、精神科医の道も
考えました。(もっとも、こちらの道も、やはり途中からは研究へ移行していく気がまんまんな
わけですが。)

# 時々、基礎研究に行くなんて医学部がもったいない、という声を聞きます。昔からです。
# 昔はそう言われるたびに考え込んでしまうことが多かったですが、今では、そんなことはありません。
# 今では「やりたかったことを出来ないまま終わるなんて人生もったいない」とはっきり思います。

「自身の仕事を熱く語っている状態」にあこがれているような気がします。
臨床をしている仲間にも、医療を熱く語る人がいます。うらやましいです。
そりゃ自分だって、医療を語れと言われれば語りますが、熱く語れるわけではありません。
「ひややかに」、あるいは頑張っても「常温で」語れるくらいでしょう。

大きな仕事を成し遂げた人の中には、貴真面目な人もいれば、自由気ままな人もいます。
しかし、ほとんど多くの人に共通しているような気がするのは、自分の仕事を「熱く語っている」という
点だと思うのです。
熱く語っている、というと、なんだか意識が高そうですが、なんというんでしょう、もう少しゆるい表現を
考えてみると、
「風呂に入っているときにも自然とそのことを考えている」
★「それについて何らかのこだわりや自分なりの筋があって、それを論拠に語ることができる」
といったところでしょうか。
こだわりがないと、他の人と議論したときに、押し負けます。
実際、ぼくが医療の場で、上の先生と意見が相違したときに、「ま、なるようになればいいか、上の先生がそう言ってるんだし」と思って
思考を放棄したことが何度あったでしょうか。きっと医療を熱く語るような人は、そうはしないでしょう。
「ぼくはこういう理由でこう思います、なのでこうした方が患者にとって良い結果になると思います」などと言うでしょう。
例として医療現場を持ち出しましたが、研究の世界のほうが問題が顕著かもしれません。他人との議論に
押し負けてばかりでは、単に患者が不利益を被るだけでなく、そもそも研究者として務まりません。

僕自身を振り返ると、脳のことを語っているときは、だいたい熱く語っています。
数学のことを語っているときも、だいたい熱いです。
一方、医学的なことを熱く語っていることはあまりありません。

何に幸せを感じるかは人それぞれですが、自分は、上の ★ ができるようなことを仕事にすると
幸せになるのではないかな、と今は考えています。
少なくとも、そのような仕事を、一生のうちに一度は体験したいです。
そんな思いを抱きながら、大学院に進学します。


取りとめのない文章になってしまいましたが、まとめると、

・自分がこだわりや熱を持てるような仕事をしたい
・だから自分は基礎に行く

となります。


2/4(木)
すごい仕事に熱心で楽しそうな後輩がいて、その熱心さがどこから湧いてくるのかわからない、自分には湧く気がしない、と思うわけですが、
「仕事」を「自分の最も熱心になれる分野」に置きかえて考えれば、納得できます。

一つめの鍵括弧と二つ目の鍵括弧が等しくなるように、仕事を選べばきっと楽しいんじゃないかな。


2/1(月)
来年度は、大学院に進学することにしました。周りに医者はいません。


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